第十一章 因果

広大な森で落とした硝子片を探すよりも困難なのは、この宇宙で正義と愛の定義を見つけることであろう。
若宮郁子は叫んだ、『これが私の正義なの』と。彼女の最後の言葉は、命を文字通り燃やしながら葉山大志の脳を直撃した。その衝撃は、彼女の想いを理解するには十分過ぎた。言葉が想いを限るとわかっていても、理解という概念が誤解の架け替えに過ぎないと論ずる識者がいても、彼にとっては彼女の想いは、真実になったのだ。
受け継がれた想いは、何のためにあるのか。それは彼が自分を取り戻すためであったことは一つ、間違いない。もしもここで彼が、自分に価値が無いなどと感じることがあったら、それは彼女の生を全否定する行為である。彼は約束を決して破らない。自分に課せられた命の重みと約束をわかっている。だからこそ、彼は戦う道を選んだ。
今もまだ自分を蝕んでいる影に怯むことなく、向き合うことを決意した彼を見送る優しい手はもう、この世には存在しない。孤独の意味を知りたいのならば、広辞苑を引くより彼を見ればよい。
雨の夜だった。連休が明けて世間は忙しなく回り続けている。梅雨が近いのかもしれない、夜風も湿気を纏っている。ネオンから離れて街道を歩けば、足音が水滴を跳ね上げて自分の存在を辛うじて自分に認識させているようでもある。
自分に安住の場所が無いことはわかっている。だからこそ彼は、自分の存在に自分で責任を持たねばならなかった。
それと同時に襲い来るのは、抗えなかったとはいえ一時の欲望に身を委ねた事に拠ろう罪悪感と恐怖心である。
あれを純粋な快楽と呼べるだろうか? 果たして、彼は消えない傷を自ら負い、消せない記憶の中で足掻く宿命を背負ったのである。精神的な自傷行為とでも言おうか。
『あの時』、何が起きていたのか。思い出そうとすると、それは自分ではないと叫ぶ自分がいるのだ。とても認められないし、認めればそれが彼女への裏切りになってしまいそうで――いや、しかし既に行為は成立しているのだから、手遅れと言えばそれまでなのだが。
贖罪や免罪という言葉に縋りたがる人間が多いのも頷ける。彼は自分が厭になるくらいに、己が精神の脆弱さと凡庸さを痛感していた。

人通りの少ない道を選ぶのは、そんな事実を必死に受け入れるためであり、人ごみが煩わしいからであり、またそれが一つの選択という名の導きでもあったからである。
夜の代々木公園には段ボールでバリケードを張ったホームレスたちの住居が存在をアピールし、転がる酒瓶がその空虚感や無常さをわざわざ演出しているかのようだ。
宵闇に紛れた雫が跳ね返って靴に付着する。その濡れた爪先が、ふと止まった。付着したのは、水滴ではなかった。
理由はない。理屈もない。本能的な、という表現はできるかもしれない。直感的とも言えるかもしれない。葉山は視線を足元に落とし、それから気配のする方を見た。呼吸の音だったのだろうか? 僅かに空気の乱れが感じられた。何より彼の気を引いたのは、靴先に絡まりついた細い糸のような、一本の髪の毛だった。
葉山は顔を上げた。傘を傾け、視線の先を見据えた。嫌な予感はすぐさま確信へと変わり、一瞬だけ彼は、あの呪われた感覚を思い出し、それを振り払うために息を飲みこむ。
それは、ベンチとベンチの間に設えられたゴミ箱から続いていた。葉山の目に飛び込んできたのは、あの日を思い出すかのような光景だった、

――ああ、命というのはこうも容易く凌辱されるのか。肯定に証明に時間がかかる割には、否定されるのは一瞬だ。

ゴミ箱だぞ? 最期に身を沈めた場所が。

いや、この街の何処で果てても、ゴミ箱と相違ないじゃないか。

じゃあ、お前もゴミ箱に放り込んでやろうか?

悪くないな。できるなら夜明け前がいい。

望むなら、その両手を首にかけるがいい。

マーブル模様のように変容する思考。しかし彼は踏みとどまった。夜の静寂に相応しい密やかな狂気と戯れてから、彼は一瞬だけ笑みを浮かべ、すっかり鋭く研ぎ澄まされた瞳を対象に向ける。
ゴミ箱に押し込められるように遺棄されていたのは、20代半ばと思しき女性だった。自分のつま先に絡まっているのがその女性の毛髪だと判断するのに、迷う要素が見つからない。やや茶色がかっているのがこの暗闇の中、光量の乏しい公園の照明でも十分に見えた。
わざわざ確認しなくてもわかっていた、この女性が『胸元に三か所、致命傷となる刺傷を負わされている』ことは。それでも職業柄だろうか、それとも彼の中に残っていた人としての良心がそうさせたのだろうか、葉山は傘を投げ出し、無駄のない動作で女性を抱きかかえてゴミ箱から引きずり出した。
案の定だ。残念ながら彼の残酷な予想は外れなかった。女性は虫の息で、口から鼻から、鮮血を垂らしている。葉山の耳に最初に引っかかった空気の乱れは、血の気泡が弾ける微弱な音だったのだ。女性の剥き出しになった乳房付近に開いた赤黒い三か所の傷口と、自分の手にべったり付いた血を見て、葉山は形容しがたい『何か』が込み上げてくるのを堪え切れず、その結果こんな言葉が漏れた。
「……いいだろう」
因果律という言葉がある。それは星宿と呼ばれることもあって、時と場所によって天啓とも称される。いずれにしても、この世界に生を受けた者は、見えない糸で繰られ、導かれ、何処かに辿り着かなければならない運命にあるようだ。
腕の中で、女性は引き攣り上ずった声で、
「答え、られな、かった、から」
そう言った。話す度に血が飛散する。だが喋るなとは言えなかった。ここで黙らせたところでこの女性が助かるわけではない。それに、これはこの女性の最後の言葉だ。立ち会った者はそれを聞き届ける義務がある。
「何に答えられなかったんだ」
「あい、とせいぎ、は、どこ」
女性の言葉の訝しさよりも、背筋が凍りつくような戦慄と戸惑いを葉山は覚えた。その疑問は何よりも今、葉山自身が抱いているものだからだ。不安が増悪する。不安定な自我が、揺らいで自身を惑わせる。違うと分かっているのに、この女性を刺したのが、もしかしたら自分ではないかと本気で思ってしまう。
違う、ちゃんと現実を見ろ。この、甚だ不条理な現実を。
「それは、誰に訊かれたんだ」
「……」
たった今、女性は葉山の腕の中で絶命した。優しすぎる雨が、女性の顔を無残に汚す血をほんの少しだけ流してくれる。
葉山は、せめてもの想いで、胸元のブラウスのボタンをかけ、花の代わりに自分の傘を女性に手向けた。

「命は、奪われちゃいけない。誰が笑おうと、それが私の正義」

彼女の正義は即ち自分の正義である。答えなら、すでに此処にある。それが正解か否か、普遍的な真理であるか、万人にとっての真実であるかは問題ではない。

しかし、あの日牙を剥いたのは、冷たい銃口を向けたのは、他でもない自分だ。それでも、彼女は言ってくれた。

「待っているから。ずっと、待っているから!」

彼女がもうこの世界にいないことは、しかし彼女の言葉を否定する理由になり得るだろうか?言葉を、想いを、彼女が遺してくれた事実は変わらない。歴然としてそこに在る。
春の雨に包まれながら、冷たくなっていく女性の遺体を見下ろしながら、葉山は純粋に悲しいという感情を抱いた。特別この女性に思い入れなどなくたって、命がこんな形で奪われるのはそう、どうしようもなく悲しい事なのだ。誰がどんな理屈をつけようと、この感情を否定できはしない。
染みてしまった血を隠すために、葉山はスーツを脱いだ。腰に装着した拳銃が顕わになる。無意識のうちにそれにそっと手をかけ、その感触を確認する。どうやら癖になっているようだ。
一回だけ、彼は振り向いた。自分の置いた傘で、女性の表情は見えなかったが、不自然に投げ出された白い両足が、起きている現実の殺伐さを如実に表していた。