第十一章 因果

「行方不明?」
あからさまに不快な表情をミズは綾香に見せつけた。いつものことだと綾香は内心あきれるのだが、しかし今伝えた事実はミズの不機嫌を買うのに十分過ぎるものであるので納得もする。
「うん。そう言ってたよ、沼津さん」
「どういうことか説明は受けたの?」
「えっと」
綾香は人差し指を口元にあてる仕草をして、
「『先生より預かった件の遺体ですが、えー、行方不明になりました』」
「何よ。何の説明にもなってないじゃない」
「だってそうとしか言ってなかったんだもん」
ミズは下着を着ける途中の手を止め、
「宵っぱりに目の覚めるようなニュースね」
と皮肉を吐いた。
「ミズ、そんな恰好で寝て風邪引かないのが不思議」
「綾香。不思議ちゃんの称号はあなたに差し上げるわ」
「嬉しくないな」
そう言いながら綾香は遅めのディナーを促した。
「せめて服を着てほしい」
「そうね。明日から気をつけるわ」
ミズは涼しい顔でそう言ってのけた。綾香も綾香でなかなか胆の据わったもので、頬を膨らませはするもののそれ以上の干渉はしない。
「ご飯とっくにできてるよ」
「ありがとう。すぐ行くわ。その前にその資料を見せて頂戴」
ミズは傍目から見ればあられもない恰好で、鏡台の前に堂々と座ると、足を組んで資料に目を通し始めた。ミズの目は、すぐに明らかな異変に釘付けになり、視線がそこで止まる。理解をするのは不可能だった。だが、不可能を不可能だと判断するには、そう時間はかからなかった。
「何よ、これ」
思わず口を衝いて出た言葉がこれだ。しかしそれ以外に、相応しい言葉があったとしたら是非ミズに教えてあげて欲しい。解剖されることを覚悟できているのならば。
ミズの目を奪ったのは、彼女が解剖を依頼された大竹幸彦の、死後数日を過ぎた遺体の写真、その一部だった。厳密に言えば、両上肢部分。
禍々しく変形した部分から、爪が、生えている。どう見ても人間のそれではない。今さら説明を加えるまでもないだろう。誰もが忌み嫌ってもそこに歴然と姿を現しているのは、まさに土竜のそれである。
ミズは目を細めた。軽蔑するような色彩の濃い視線を、資料とその写真にぶつける。そして、
「『セイ』を与えちゃったのね、あの子は」
そう呟いて、ふっと息を吐いた。
「ミズ! ミネストローネが冷めちゃう」
台所からの綾香の呼び声に、ミズは応じるように立ち上がった。嫌でも脳裏に焼き付く、異形の姿。それを示す写真。真を写す、とはよく言ったものだ。
ミズはせっかく綾香が持ってきた資料と写真とをクシャクシャにしてゴミ箱へ捨てた。こんなことをしたって意味が無いとは分かっているが、せめて穏やかな夕食時だけでも、仕事のことは忘れたいではないか。
資料を蔑ろにすれば検察や鑑識から小言を食らうのはミズ自身である。しかしそんなものはミズにとってなんの興味も引かないので、とりあえず彼女は空腹を満たすのを優先させることにした。
付け合わせのポーチドエッグにフォークを突き刺すと、中の黄身がとろっと出てくる。絶妙な火加減だ。パンをちぎってそれに浸して、一口食べる。今まで食事などウィダーインゼリーで適当に済ませてきたミズにとって、この生活はまるで、毎日ホテルにいるかのような心地よさと、一種のぎこちなさがある。まぁ、ありがたいなとは思う。
ただ、『女子二名きりの華やかな食卓』と異なる点と言えば、ミズが相変わらずほぼ下着姿で食事をすることと、「細胞がね……」だの、「腐敗した粘膜はね……」だの、到底食事時に相応しいとは思えない会話も、この食卓では通用することだろう。
「生命というのは、各々勝手に定義されてはいるけれど、結実はしていないのよね」
それを聞いた綾香は、鮭のムニエルを頬張りながら、
「ミズ、相変わらず言っている意味がわかんないよ」
「あなたはわからない方が可愛いわ」
綾香は「ふーん」と言って少しだけ頬を赤らめる。そんな綾香とは対照的に、ミズの表情は晴れない。
「どうしたの?」
「いえ。ただ、面倒な仕事が増えそうな気がしてね」
「大変だね」
「綾香。あなたにも手伝ってもらうことになるかもしれないわ」
「私、お医者さんごっこならしたことあるけど、医療系の資格なんて持ってない」
「そんなものどうだっていいのよ。あなたにしかできない仕事がある」
「そうなの?」
「ええ」
ミズはコーヒーを飲み終えると、
「やっぱりコーヒーに限る。間違っても紅茶なんて出さないでね」
「この家に茶葉なんて置いてないじゃない」
ミズはニヤリと笑って、
「『セイ』は一つの生。死と対なすが剥離不能な一連の事象」
「ミズ、別に今夜は講義はいいって。コーヒーも冷めるよ」
「それもそうね」
行方不明の死体。死せる者との会話を散々体験してきたミズにとっては別段ビビッドな出来事ではない。だが、それが恐らくは『彼』によって『セイ』という名の呪いを与えられ、この街を彷徨っているとしたら。……あまり小気味よい話ではない。もっとも『呪い』だなんて、医療職が口にするのも甚だ可笑しな話であるが、これ以外に適当な言葉がミズには思いつかなかった。ネクロフォビアが聞いたら心臓の止まる様な話ではあろうが、ミズは完全にとは言えないがその対極にはいる存在であるので、この件に強い興味を抱いている。
が、それと同時に一抹の不安も覚えた。この事実を、もしもあいつが知っているとしたら。
「私、明日クリニックには行かないわ」
「あれ、どうして?」
「急用ができたの。久々に見たくもない顔を見に行く」
「変なの」
「よく言われるわ」