第十章 沈黙の詩

短く呼吸をしながら、彼は夜が深まるのを待った。痛みはすでに感じない。時折、手に付着した血を舐める、その味がどこはかとなく醸す衝動は彼を何処へ導くのか。血の酩酊という言葉を、彼は知らない。それでも、この味が自分を高めることを本能に近い部分で解している彼であるから、彼は『自分を見失いそうになると』、血の味を確かめるのである。

僕は、生きている。

「随分と御大層な趣味だな」
大竹幸彦はそんな彼を皮肉った。皮肉らずにはいられなかったのだ。
消灯時間の過ぎた警察病院の廊下で、二人が対峙している。大竹は、何とか自由のきく左手で不器用に煙草を持ちながら、
「俺を笑いに来たのか」
そう言って煙を長く吐いた。
大竹の声に反応する葉山は、しかし首を横に振る。
「それとも、処分でもしにきたのか? 用無しは消せ、なんてな」
再び首を横に振る葉山は、ゆっくりと口を開いた。
「……一緒に、来て」
「なんだと?」
「舞台はまだ終わっていないんだよ」
「ハッ」
大竹は鼻で笑った。そうすることで、目の前の非日常を誤魔化し、その深い闇のような感情の奔流から逃れたかったのだ。大竹はこの場に於いて、未だ自我を非常に危ういバランスで保っているに過ぎない。
「お断りだ」
「……」
「帰ってくれ」
葉山は肩に付着した血糊を自分の指先に付け、それを大竹の眼前に突きつけた。
「……何の真似だ」
大竹が睨むも、葉山の表情は一転して至って穏やかだ。先ほどまでカニバルのような殺気を醸していたかと思えば、今度は場違いに柔和な笑顔を見せる葉山。その内面世界は、まるでグラデーション。人々を弄し狂わせる月姿。導く者の、圧倒的な惑溺。
「この味を、忘れたの?」
目の前には、血濡れた細い指。
「……葉山。その手をどけろ」
篠畑の手から逃れ、しかし未だ不安定な精神状態の中で揺れ動いていた大竹の視線は、言葉とは裏腹に緋色の指に釘付けになる。
「……そんなこと言わないで」
葉山は緩慢な動きで、大竹の顔を血の指でなぞり、自らの指先を大竹の口元に近づけた。
「ほら……」
大竹はしばし沈黙していたのだが、やがて、
「君は選ばれたんだよ」
葉山の言葉に導かれる様に、躊躇いがちにゆっくりと、葉山の指先の血を舐め取り始めた。
「……」
満足そうに目を細める葉山。口中に血の味が広がった瞬間、大竹は、形容しがたい衝動が体の奥から湧き上がるのを感じた。それに突き動かされるまま、しばし葉山の指先の血を味わっていた。
「……一緒に、来て」
大竹は快楽と共に押し寄せる背徳的な感情から逃れるために、目の前の誘惑に己を委ねる。虚ろな目でゆっくりと、一回だけ頷いた。
葉山は、スーツのポケットから小ぶりのジャックナイフを取り出すと、大竹に手渡した。
「君は、優秀なアクターだから」
そうして闇に消えていく、2匹の獣。
舞台は終わらない。