第十章 沈黙の詩

試される魂などというものが存在するとしたら、それは正義と相反するものである。神の嗜好は誰にも咎められないのだから、そこから逸脱した正義とはただの蛮勇、いやそれ以下の愚物である。認められないし、在ってはならない。しかし空間を侵してそこに在る。では、どのように『それ』は証明され、人々に認識されていくか?
その為の手段を、人々は『正義』と呼ぶ。

謎や理由がパズルのピースのように合わさっていくとは限らないのが現実世界である。方程式に嵌らない事象で埋め尽くされているのが本来の自然な姿である。しかし、人間は自らの中に計算尽くされたスキームを生み出し、その中に都合のいい魂を捏造した。もしも神が居たら、それを傲慢と言わずに何と言うだろうか。

冷たい感触で目を覚ました。寝返った自分の腕が、狭い簡易ベッドから落ちて金属部分に当たったようだ。若宮はすぐに状況が飲み込めず、しばらく天井を仰いでいた。
ここはどこだろう。今日は何曜日だっけ。
頭が痛い。
そうだ、私は倒れたんだっけ。
「あ、そうだ綾香さん――」
若宮はいきなり上半身を起こしたので、目眩を起こしてしまった。
「ダメですよ」
すぐに、厭に優しい篠畑の声がした。
「無理できる体じゃない。しっかり休むことです」
「それどころじゃないんです」
若宮はふらつく頭を振って、靴を履いた。
「行かなきゃ」
「何処に?」
「それは」
言葉に詰まる若宮。篠畑はため息をつきながら水を差し出した。
「水分補給は基本ですからね。落ち着きなさい」
貴方に言われたくない。若宮は言葉をぐっと飲みこんだ。
「焦らなくても大丈夫ですよ。貴方はコンディションを整えることを優先させなさい。心配しなくてももうすぐ、貴方の出番です」
「出番?」
篠畑は白衣を脱ぎ、本棚にあった分厚い本を取り出した。
「小鳥は、帰る場所を求めて必ず戻ってきます。帰巣本能ですね。人間とて同じ。縋るべき教理を求めて必ず巡ってきます」
「……葉山君のことですか」
篠畑は目を細めた。
若宮は思うように働かない頭で必死に言葉を続ける。
「彼は十分苦しんだじゃないですか……もうやめてください」
「心外だなぁ。まるで僕が悪いみたいじゃないですか」
この期に及んで彼は何を言っているのだろう。またしても言葉を弄しているのだろうか。若宮はカッとなって、
「貴方の望みは何なんですか? 貴方のせいで大切な人々が傷ついて苦しむ姿を見るのは、もう沢山なんです!」
思わず声を荒げた。ハッとして、
「……ごめんなさい」
「謝る必要はありませんよ。ただ誤解されたくないのは、次の頁をめくったのは若宮君の意志ではありませんでしたか」
ぐっと言葉を失う若宮。さらに篠畑はたたみかけるように告げる。
「僕は選択肢を強制した覚えはありませんよ。君は君の意思で動いてきた。その結果です。もちろん、すべての責を負えとは言いません。そんな資格も筋合いも、僕には無い。ただ、僕は僕の意思の導くままに動いているだけです。君と同じでね」
この言葉は、若宮をひどく打ちのめした。
そうなのだ。そもそもICレコーダーを葉山に手渡したのは若宮で、それを誰も強制していない。ましてや篠畑が仕組んでそうなったわけでもない。この舞台の幕を開けたのは、若宮自身。彼女が責めるとすれば、自分自身なのだ。その事実から、若宮は目を逸らしてきた。
どこかでわかっていながら、篠畑に何かを押し付けようとしてはこなかったか。だとしたら自分は、とんだ卑怯者だ。
「泣かないでください。その涙に意味はありません」
優しいようで、どこまでも冷たい言葉。そう、こんな時に流れる涙に意味など無い。こんな時に泣いてしまう自分の矮小さ、弱さ、卑しさがどこまでも悔しい。しかし若宮は流れ出る涙を止める術を知らず、ただその場に立ち尽くすしかできない。
「心配はいらないと言った筈ですよ。次のセリフがわからなくてもね」
篠畑は本を閉じ、若宮に近づいた。
「この部屋から出れば、君は再び舞台の上です。どうしますか」
これはわかりやすい選択権の付与だ。篠畑は、敢えてその責を負うとでも言うのだろうか。
「決めるのは、最終的には君自身です。しかし時間には限りがある」
若宮はどきりとした。
「葉山君の精神は恐らく、限界にまできているでしょう。モグラに侵されるか、僕の真似ごとに溺れるか、どちらにせよ自分を完全に見失うまでもう、時間は無い」
「そんな……」
「助けたいのでしょう? 君は、そのつもりで次の頁を開いたんだから」
若宮は静かに頷く。篠畑は、若宮の涙を細い指でそっと拭った。
「ならば、何を迷うのですか?」
若宮には罪を自覚して尚、それを乗り越えて心の中で燃える何かがある。それが恐らく、皆が求めている『正義の定義』の一つであろう。篠畑はそんな確信を持っている。
「さぁ、行きなさい。君の望みを、今度こそ叶えるために」
若宮は顔を上げた。その目にはまだ戸惑いがあったが、そんなものに構っている暇はない。若宮は数秒の間、篠畑の顔をじっと見てから、何かを決したようにその手を離し、ドアを開けて駆け出した。
遠ざかっていく靴音を聞きながら、篠畑は腕を組んで、
「恭介……僕は、君の望みを叶えられそうにないな」
そう独りごちた。