第九章 彼は気まぐれにキスをする

若宮はその手に、葉山が差し出した銃を握り締めていた。
「それが君の選択、なんだね」
葉山は口元から笑みを消した。
「そう、憎ければ殺せばいい。僕の世界を否定すればいい。そのうち僕への認識も消えて、君は楽になれるよ」
「違う……」
若宮は喉の奥から絞り出すような声で、
「違うわ」
「何が?」
「私はあなたを殺すために、これを受け取ったんじゃない」
「ふーん」
葉山は未だ若宮を試すような口調で、
「大竹君のかたき討ちでもするのかと思ったよ」
若宮の表情が一気に厳しくなった。綾香は、目の前で握られている拳銃にとても怯えていて、若宮のスーツの袖を掴んで震えている。
若宮は、受け取った拳銃を自分と葉山の間に置いた。そして、
「私が貴方を撃つことはない。だって、信じてるもの」
まっすぐ、葉山を見ながら言った。
「信じてるもの」
若宮は繰り返す。
「あなたが誰であれ、私はあなたを信じてる」
それはそのまま篠畑の言葉であったが、若宮はそれを借りることにした。
『信じてる』。この言葉ほど相手を拘束する力の強い言葉もなかなか無いだろう。しかしそれは、相手がいわゆる『正常の範囲』にいる場合に限られる。
葉山はため息をついて、今度は懐からICレコーダーを取り出した。
「そもそも、この舞台の幕を開けたのは、君なんだよ」
そうなのだ。若宮はその責任を、誰より重く感じている。他でもない自分の取った行動が、葉山を『追い詰めて』しまったのだから。それでも――
「そうよ。だって私は、あなたを信じているから」
若宮は決意に満ちた声で、
「罪を、償って」
凛として言った。だが、葉山はICレコーダーを弄りながら、
「君は賭けに負けた。君のとった行動は、結果、僕を導く天啓となった」
「違うわ。あなたはあなたに負けた。それだけよ」
「そうだとしたら、君も僕に負けたことになるね」
「……」
悔しかった。自分が次の頁をめくってしまったがために、多くの人間が傷ついてしまった。自分の中にも忘れられない光景を脳裏に焼き付けてしまった。一般人を巻き込んでしまった。何より、葉山を追い詰めてしまった。
若宮は自分の言葉の軽薄さに嫌気がさした。「信じていた」から、ICレコーダーを葉山に渡した。信じていたから、舞台の幕が開かれた。信じていたからこそ……裏切られた。
若宮は目頭が熱くなるのを必死に隠そうとした。ここで泣いてはいけない。ここで流す涙には何の意味もない。欺瞞が流れ落ちるだけだ。
ピンと張った緊張感のなか、ぽつりと若宮は言った。
「私はあなたをそれでも、信じているから。そのことは忘れないで」
「……」
葉山は、堪え切れなくなったとばかりに、「ふっ」と声を出すと、堰を切ったかのように笑い出した。
若宮は、今度は突っかかりはしなかった。無機質な廊下に葉山の笑い声だけが響く。綾香はますます震えて、若宮の腕の中でじっとしている。
「さすがは主演女優。あの人が認めるだけのことはある」
葉山は「くくくっ」と声を漏らしながら、
「しかし僕は君の言葉を認識しない。それは否定されるだけだ。ねぇ若宮さん、こんな場所じゃ嫌でしょう」
「……何が」
「世界で一番、おいしい紅茶を飲みに行かない?」
若宮は怪訝そうな顔をした。葉山は、何を言っているのだ?
綾香がここでか細い声を出した。
「若宮さん……」
「綾香さん、本当にごめんなさいね。あなたをここまで巻き込むつもりはなかった」
「違うんです」
ここで、綾香は予想だにしない言葉を紡ぎ出した。
「姉が、呼んでる」
「え?」
綾香はふわっと若宮の腕から抜け出すと、葉山と若宮の間に置かれていたソファの上の拳銃を手に取った。
若宮が言葉を失う。葉山は笑うのを止める。
綾香が、銃口を葉山に向けたのだ。
「世界が貴方を否定したんじゃない。貴方は、貴方自身から逃げ出しただけ」
そう言い終えるや否や、綾香はアッサリと引き金を引いた。乾いた破裂音がし、ブツッと音を立て、銃弾が葉山の体を撫でる。
「!?」
若宮は何が起きているのか、意味がわからず呆然とするしかなかった。銃に慣れていない非力な綾香の握力では、発砲時の衝撃に耐えられず、銃弾は狙いを大きく外して葉山の左肩を掠めただけだ。――彼女は、左胸を狙っていたのだ。だが、それでもダメージは確実だったようで、葉山は肩を押さえてその場にうずくまる。
「あ、綾香さん!」
ようやく事態を飲み込んだ若宮が、慌てて綾香を取り押さえる。すぐに銃は取り上げることに成功したが、若宮は自分が羽交い絞めにしている相手が静かに紡ぐその詩に、耳を傾けざるを得なかった。
綾香は歌を歌っていた。マイナーコードのみの寂しい旋律。
「優しいギターの旋律と逆回転する柱時計が……」
誰の歌か、というのは愚問だろう。
「2時を指し示すとき、私自身も天使になれるの」
「く……っ」
葉山は血濡れた手を綾香に差し伸べようとした。
綾香は中空を見つめている。何かに取り憑かれたかのように鼻歌を歌い続ける。そんな綾香を葉山から庇うように、若宮は葉山の手を除けようと距離を置いた。
「綾香さん、あなたは何もしていない。私が撃ったようなものだから」
「~♪……~♪」
「大丈夫よ……大丈夫だから」
「♪~……」
綾香の歌声が進むとともに、葉山の目の色に変化が現れた。それまで一切の迷いを失くして不気味に光っていた両目に、戸惑いと苦悩の色が滲み始めたのだ。そう、まるで薬物の禁断症状のように。
「あ……」
葉山の視界が、霞んでいく。霧の向こうに見えたあの影に縋るように、声を絞り出す。
「先輩……」
葉山の額に汗が浮かんだ。出血のダメージと混濁していく意識に耐えられず、そのまま壁に倒れこむ。
「葉山君、大丈夫……?」
不安げに若宮は葉山に声をかけた。
葉山はしばらく短く呼吸をしていたのだが、ふいにその息が止まったかのように場に静寂が訪れた。
ややあってから、葉山は突然、血まみれの右手をぺろりと舐めた。
「……不味い」
「葉山君?」
若宮は息を飲んだ。綾香の歌はまだ続いている。
「その歌をやめろ」
葉山の口調が明らかに変わったので、若宮は息を飲んだ。
「若宮。いつまで躊躇している」
葉山は今までにない暗い憎しみを込めた目で若宮を捕えた。思わず竦んだ若宮は、
「葉山君――」
と言ったきり二の句が継げなくなる。
「幕を開けた責任は、自ら閉じることで責任を取るものだ」
厳かな口調の葉山とまるでちぐはぐな綾香の歌が、若宮の耳にこびり付く。
「それができないのなら、自ずとお前も世界に否定されるぞ」
それは、既に世界に拒否され、認識されなくなった者からの警告だろうか。
「ここで幕引きができないというのなら、舞台は継続、だな」
そう言うと、葉山はもう一度自分の手に付着した血を舐める。
綾香は視線を彷徨わせたままラララ、と歌を続けているだけだ。
「次の舞台でまた会おう」
若宮はどうにかして必死に、
「ま、待って――」
と声をかけたのだが、
「ああ、そうだ」
『葉山』は、ついでに思い出したとばかりに突如、若宮に急接近すると(若宮は身構えることができなかった)、
「あいつからの伝言だ」
「え?」
「『信じるとは、一種の責任放棄だよ』」
そう言って、若宮の唇に自らの唇を重ねた。
「……!?」
頭が真っ白になる若宮。触れたのは一瞬で、それから葉山の表情を見ることができなかった。彼は、何事も無かったかのように身を翻して、あっという間に去っていったのである。
「……」
「~♪♪……♪」
「……」
若宮はただ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。