第九章 彼は気まぐれにキスをする

カンパニュラの花言葉は、『想いを告げる』。そして、『後悔』。
彼は何を伝えたかったのだろう。

盲目的な正義が暴走する時、それは赤い目の天使が告げる天啓として降り注ぎ、人に宿った瞬間に狂気と成る。それを知りつくした上で、演出家を買って出たのが篠畑である。葉山に元来包含されてきた鬱屈した正義は、いとも簡単に化学反応を起こして変容した。彼を闇に落とすことは、篠畑にとってはいとも容易いことであった。しかし、葉山はもう一つの存在に心を蝕まれつつある。それは同じく世界を憎み、死んでいった存在。

世界に拒否されたが故に、世界を否定する者達の復讐は終わらない。

そしてこの舞台はまだ幕を閉じない。主演女優が迷い続ける限り、彼女は『彼』の手のひらの上だろう。しかし、このままで終わるわけではない。舞台は、誰の予想をも超えた展開を迎えることとなる。

雨煙る街で、手負いの獣が一匹、霧の向こうへ消えていく。血の味を確かめるように、呪われたその手を何度もねぶりながら。その両眼には、世界が逆さまにでも映っているというのだろうか。世界を憎み、呪うその目の先には、一体どんな幕切れが映るのだろうか。彼女に口づけたその唇が、後悔や愛を語ることは二度と無いのだろうか。

悪意のディレッタントな演出家と美しく高慢な観客が現れた時、若宮はほろほろと涙を流していた。
「おやおや」
篠畑が小首を傾げて、
「何かありましたか」
何もない筈など無いのに、なぜそんな質問を投げるのか。つくづく意地が悪い。いや、性質が悪い。
若宮はしかし、睨みつけることはおろか目を合わせることもできなかった。篠畑は手をパン!と叩いて、
「今回はこの辺で、といったところですかね」
それこそ舞台を演出するようにそう言った。
ミズは綾香に目をやった。黙して若宮に寄り添っている。綾香の様子を見たミズは、ニヤリと笑った。そして、
「玲子さん。いいわよ、詠っても」
そう綾香に言った。綾香の視線がミズを辿る。そして、
「あなたは……?」
「そんなことは気にしないで。この人に詠んであげなさいな」
篠畑は自分の舞台に勝手に口出ししてきたミズをけん制するように、
「ミズ、何を仰っているのですが」
「面白いのはここらかよ」
綾香はミズの言葉に導かれる様に、再び歌を歌い始める。
「ある日、私は祝福された。否応無しに、私は神から祝福された」
囁くように綾香は詠う。優しく悲しいメロディ。その旋律が篠畑を捕えるのには、そう時間はかからなかった。悪夢の主催者だったはずの篠畑の表情が、みるみる固まっていく。
若宮は「綾香さん」と声をかけた。
「もういいのよ。そんなに苦しんでまで詠わなくていい」
「幸いにも私は祝福された。あなたはそこにいなかった。いなかった。あなたは……!」
「Dr.篠畑」
ミズが怜悧な口調で呼びかける。
「もしも宝飯玲子がここに存在するとしたら、あなたはどうするのかしら」
若宮の涙が、無機質な廊下に落ちた。残酷な讃美歌が鳴り響くような、奇妙な神々しさに包まれたその場で、篠畑は一言、
「何ですって……?」
そう言ったきり言葉を失った。

第十章 沈黙の詩