第九章 彼は気まぐれにキスをする

篠畑は雨の日には詩を読まないことにしている。詩を読むという行為には、それ以上の意味があるように彼には思えてならないのである。ましてや、雨の日、正確には空から何かが降る日には詩など絶対に読まない。詩というのは作者の想いの雫であり、全身と魂を駆け巡る血のようなものである。その一片を掬うということであり、それに触れることはその血の味見をするようなものだと彼は認識している。だから雨や雪の日には決して彼は詩を読まない。
人を助けたいという気持ちがこじれにこじれて今の場所に行きついた篠畑には、医師としては半ば致命的な弱点があった。いや、もう医師ではないのだから関係ないかもしれないが、他者には知られざる彼の意外な弱点が存在するということ自体が国家レベルでのトップシークレットと言っても過言ではない。
その日の朝も篠畑は、寝ぼけ眼をこすって優雅にロッキングチェアの上にいた。仕事はないのでカジュアルな格好をしている。
「774番!」
「はい?」
突然、空間を邪魔するように若い声が響いた。
「なぜ時間内に食事を終えない!」
「あぁ、すみませんね」
「時間にはきっちり従うように!」
「君、新人君ですね」
「無駄口は叩くな!」
「無駄口、ねぇ」
「それが無駄口だと言っている!」
篠畑は医学書の一ページを破って作った折鶴を弄びながら、冷めたスープの残る皿に目をやって、
「残すのは忍びない。あなた、残りを飲んでくださいよ」
「何?」
「僕たち囚人が、どんな食事をしているのか知るのも、仕事ですよ」
「黙れ!」
「飲めないんですか」
篠畑はニコリとほほ笑む。その力に一瞬だけ気圧された新人警吏は、むきになって、
「いいだろう。飲んでやる」
乱暴に言い放つと『拘束された自由』の部屋にずかずかと入り、悪態をついてから篠畑の残したトマトスープをぐいっと飲み干した。
「けっ、不味いな」
してやったりといった表情の新人警吏。その表情につけ入る隙を見つけた篠畑はすかさず『お遊び』を始める。
「一気に飲んじゃいましたね」
「お前が飲めと言ったのだろう。どういう事情かは知らないが、独房でくつろぐなど罪人には豚に真珠以上の贅沢だ! そのふざけた椅子も、そのうち焼却処分してやるからな」
「それは困りますねぇ」
新人警吏は鼻で笑った。
「ここは社会のゴミだめだ。お前のようなクズには相応しい食事だな」
その発言には、篠畑は苦笑するしかない。
「何がおかしい!」
「正義感がお強いんですねぇ。若くて、少しばかり勘違いされてて。いいですね、そういうの」
茶化されたと思った短気で未熟な警吏は、篠畑の胸倉に掴みかかった。
「貴様、自分の立場をわきまえろ」
「その言葉、そっくりお返ししますよ」
「何だと!」
「そろそろ、かな」
「何がだ」
血気盛んな警吏の顔が真っ赤になる。篠畑の言葉に、余裕以上の何かを感じ取ったからだ。
「僕がなぜ、ここにいるかわかります?」
「知るか」
「おや、囚人の情報査収もあなた方の仕事のうちではありませんか」
「うるさい! このまま殴ってやってもいいんだぞ」
篠畑は自分の胸倉をつかむ警吏の手を指さして、
「震えてますよ」
そう『優しく』言った。
「そろそろ回ってくる頃でしょうかね」
「何がだ」
一転して篠畑の微笑みに暗い影が宿る。その瞳は『見えざる影』のそれである。幸か不幸か、新人警吏はそのことを知らなかった。否、この場合は不幸であったと言わざるを得ない。
「もしも、あなたが今飲んだスープに、毒が混ざっていたら?」
「なに?」
「神経性の毒薬など、僕にはいくらでも手に入るのですよ」
胸倉を掴んでいた警吏の手に、汗が滲み始める。
「聞いたことありませんか?『見えざる影』って」
その単語を聞いた警吏は途端にひきつった笑顔を浮かべる。
「例えば末梢神経から徐々に麻痺し、最終的には呼吸筋を麻痺させて死に至らしめる。そういう薬物だって僕の手に入る場所なんですよ、ここは」
「う、」
警吏は本当に手足が痺れてきた気がして、篠畑を解放してしまった。額に汗を浮かべてフラフラと壁にもたれかかる。
「解毒方法はありません。徐々に訪れる死を待つしかないのです」
「ひっ……!」
「ほら、段々苦しくなってきたでしょう」
「た、助けてくれ」
篠畑は瞳に一層濃い影を彩って、
「可哀想に」
そう言ってほほ笑んだ。
急転直下でパニックを起こした警吏は、口から泡を吹いて気絶した。壁に身を預けて、その際に頭を打ち付けたらしい。多少出血したらしく、壁に血糊がわずかに付着した。
篠畑はその色に、一瞬だけ眉をひそめた。
「あーぁ」
そして倒れた警吏を一瞥して、部屋に備え付けてある内線を手に取った。
「もしもし? 清掃係をお願いします」
これはただのいたずらだ。言葉というのは意味を伴うと人間に絶大な影響を与える。篠畑はその力を知り尽くしている。『毒を盛られた』と思ってしまった警吏はその判断能力がオーバーヒートし、飲まされたスープに猛毒が入っていると脳が判断し、それに類似した作用をもたらす成分が入ってきたことで完全に体が拒絶反応を示したのである。
彼が実際に飲んだのは、メジャートランキライザーと呼ばれる抗精神病薬の一種にすぎない。正常な人間が飲めば、アドレナリンバランスを乱されて一時的に行動が鈍くなる程度の副作用はあるが、泡を吹いて倒れるようなことはまずない。それを、篠畑は言葉だけでそこまで彼を追い詰めたのだ。
認識された言葉の力。それを統べるものはいなくても、ある程度、意のままに操る人間は存在する。篠畑もまた、そんな人間の一人なのである。
「雨、上がらないかな」
そう呟くと、篠畑は最後にもう一度だけ、冷たい視線を警吏に向けた。